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東京高等裁判所 昭和38年(ツ)95号 判決

上告人 常行はま

被上告人 竹内喜悦

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告理由第一点について、

賃貸借契約は債権的な契約であるから、賃貸人が目的物の所有権その他これを賃貸する権限を有しない場合であつても、賃貸借契約は有効に成立し得るものであり、賃借人が、賃貸人から目的物の引渡を受け、これを現実に使用収益した以上、その後に至つて賃借人が目的物件の所有者との間に新たに賃貸借契約を締結したとしても、これによつて従前の賃貸借契約が当然に消滅するものではない。従つて、賃借人は従前の賃貸人に対し賃料の支払を免れることができず、賃借人が賃料の支払を怠り、賃貸人はこれを理由に賃貸借契約を解除した場合においては、目的物の返還を請求し得るものといわなければならない。

原判決の判示によれば、原審は下記の事実を認定している。すなわち、本件建物はもと上告人の夫であつた訴外長島洋の所有であつたところ、昭和三十四年二月五日訴外花木信にその敷地とともに売渡されたものであるが、同年五月上告人は長島洋を代理人として被上告人との間に本件建物の賃貸借契約を締結した。被上告人は昭和三十五年八月頃突然花木信から本件建物は自分の所有であり、弟の長島洋に当分の間賃料を取得させ、債務の弁済に当てさせることにしていたが、弟に不都合があつたので、今後の賃料はすべて自分に直接支払うようにとの申入を受け、はじめて複雑な事情が介在することを知つたけれども、花木と長島は姉弟の間柄であり、両当事者間で和解の成立することを期待し、なお暫く従前どおり上告人に賃料を交付していた。しかし、結局本件建物の所有者が花木であるのか、長島であるのかにつき両者間に話がまとまらず、双方から賃料を請求される状態になつたので、被上告人は昭和三十六年二月以降の賃料の支払を取り止め、同年五月二十九日それまでの賃料を一括し還付請求権者を上告人と指定して供託した。その後程なく被上告人は正当の所有者である花木から前示賃貸借と同一条件で賃借することの承諾を得、以後所有者である花木から占有の許諾を得たものとして本件建物に居住している。原審は、上記の事実に基き、被上告人は上告人との間の賃貸借契約とは別個独立の権原に基き本件建物を占有するものであり、その占有権原を上告人に対抗できることが明白であるから、上告人の本件賃貸借契約解除を理由とする明渡請求及び契約終了による返還義務の遅滞を理由とする損害金の請求は解除の成否を判断するまでもなく、失当であると判断して、上告人の本件建物の明渡並びに解除後における賃料相当額の損害金の請求を排斥した。

右原判決の判示によれば、被上告人は昭和三十四年五月上告人との間に締結された賃貸借契約に基き本件建物の引渡を受け、これを現実に使用収益してきたものであることが明かであるから、前段説示の理由により被上告人が新たに所有者である花木信から本件建物を賃借したとしても、被上告人は上告人に対し賃料を支払う義務のあることはもちろん、右賃料の不払があれば、上告人はこれを理由に適法な催告をなしたうえ、賃貸借契約を解除し、本件建物の返還を求め得るものといわなければならない。それなのに、原審が新たに被上告人が花木から本件建物を賃借したとの一事により被上告人は上告人との間の賃貸借契約とは全く別個な独立の権原に基き本件建物を占有するものであり、この占有権原を上告人に対抗できるものであると判断して上告人の上記請求を排斥したのは、他人の所有物についての賃貸借契約に関する法律の解釈を誤つたか又は理由不備の違法があるものといわなければならない。

しかしながら、本件において上告人は被上告人に対し昭和三十六年五月二十六日到達の書面をもつて、同年二月分以降の延滞賃料を右書面到達後五日以内に支払うべきことを催告し、その支払をしなかつたときは本件賃貸借契約を解除する旨の意思表示をなした、と主張していることは原判決の引用する第一審判決の事実摘示によつて明かである。前記原判決の判示によれば、原審は「被上告人は昭和三十五年八月頃突然花木信から本件建物は自分の所有であり、弟の長島洋に当分の間賃料を取得させ、債務の弁済に当てさせることにしていたが、弟に不都合があつたので、今後の賃料はすべて自分に直接支払うようにとの申入を受け、はじめて複雑な事情が介在することを知つたけれども、花木と長島は姉弟の間柄であり、両当事者間で和解の成立することを期待し、なお暫く従前どおり、上告人に賃料を交付していたが、結局本件建物の所有者が花木であるのか、長島であるのかにつき両者間に話がまとまらず、双方から賃料を請求される状態になつたので、被上告人は昭和二十六年二月以降の賃料の支払を取り止め同年五月二十九日それまでの賃料を一括し、還付請求権者を上告人と指定して供託した」との事実をも適法に確定している。右原審の確定したところによれば、被上告人が右賃料を供託したのは上告人のなした催告期間内であることが明かであるばかりでなく、上記認定のように、被上告人が、上告人に本件家屋を賃貸し得る権限を有しているかどうかの強い疑問が生じ、また、被上告人において、本件家屋についての居住権を確保するために、花木との間に賃貸借契約を結んだこともやむを得ない処置と認められることをも考え合わせれば、上告人において、自己に本件家屋を賃貸し得る権限のあることを証明する事情について、なにも主張、立証していない本件では、右供託の適法かどうかを判断するまでもなく、被上告人は遅滞の責を負はないものと解するを相当とする。

上記のようにみてくると、原判決の確定した事実関係のもとにおいては、本件賃貸借契約が解除されたことを前提とする上告人の本訴請求はその余の点について判断するまでもなく結局において全部排斥を免れないものであつて、原判決が第一審判決を維持し、上告人の控訴を棄却したのは結局において正当に帰し、上記原判決の違法は原判決に影響を及ぼすものでないことが明かであるから、原判決を破毀する理由とはなし難く結局本論旨は理由がないものとして排斥を免れない。

同第二点について、

本件建物が花木信の所有に属すること、その権限を有しない上告人と被上告人間に昭和三十四年二月五日本件建物について賃貸借契約が成立したが、昭和三十五年八月頃以降花木は被上告人に対し賃料を直接自分に支払うべきことを請求し、その後花木と被上告人間に新に賃貸借契約が締結されたことは原判決の適法に確定した事実である。右のような場合においては既に従前の賃貸人から目的物の引渡がなされた場合であつても、民法第五百五十九条によつて賃貸借契約に準用される同法第五百六十一条、第五百六十三条の規定により賃借人は契約を解除し得るものと解すべきであるから、原審が本件において右各法条の適用を認めたのは正当であり、花木信が本件建物について登記を有するか否かは無関係のことであるから、原判決には所論のような法令適用の誤はなく、論旨は理由がない。

同第三点について、

原判決が「被上告人が主張するところの花木信からあらためて本件建物を賃借したことにより、上告人の本件賃貸借契約上の返還請求権は消滅した旨の抗弁は貸主である上告人が花木信から賃貸に関する権限(借主をして花木との関係で適法に使用収益できる権原)を取得させることができなかつたので、上告人、被上告人間の賃貸借契約は効力を失つたとの趣旨であるから、右の主張には解除権行使の意思表示を包含するものと解して妨げない」との判示をなしていることは所論のとおりである。右被上告人の抗弁の趣旨を善解すれば、右原判示のような趣旨に解し得られないものではないから、原判決には所論のような弁論主義の違背はなく論旨は採用しえない。

同第四点及び同第五点について、

原判決が民法第五百六十一条による契約解除の効果は賃貸借契約の場合といえども、契約成立の時に遡つて発生するものであるとの法律判断をなしていることは所論のとおりである。しかしながら、民法第六百二十条が賃貸借の解除は将来に向つてのみ効力を生ずると規定しているのは、賃貸借契約のような継続的関係について、遡つてこれを消滅させることは無意味であるとの理由に基くものであるから、同条にいう解除とはいわゆる解約はもとより民法が解除と規定している場合をも含むものと解するを相当とし、民法第五百六十一条の解除についてのみ特に遡及効を認めなければならない合理的な理由は存しない。従つて上記原判決の判断は法律の解釈を誤つたものといわなければならない。しかしながら、上告人のなした契約解除の意思表示はその効力を生ずるに由なく、上告人は本件建物の返還請求権を有しないことは既に論旨第一点において判断したとおりであるから、原判決に所論のような違法があつても右は原判決に影響を及ぼすものでないことが明らかであり、原判決を破毀する理由にはならないから、論旨はいずれも理由がない。

同第六点について、

原判決が「賃貸借契約においては貸主である被上告人に対し完全な履行の提供をしないかぎり遅滞に附することができないところ、上告人は完全な履行をしたものと認められない」と判示していることは所論のとおりである。しかしながら、原判決は本件賃貸借契約は被上告人のなした民法第五百六十一条による解除権の行使によつて解除されたと判断したのであつて、不完全履行を理由として上告人の主張を排斥したものではなく、右は不必要の判示をなしたに過ぎないのであるから、原判決には所論のような上告人の主張しない事実に基いて判決をなした違法はなく、論旨は理由がない。

よつて、本件上告は理由がないから、民事訴訟法第三百九十六条、第三百八十四条第二項によりこれを棄却することとし、上告審での訴訟費用の負担については同法第九十五条、第八十九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 村松俊夫 江尻美雄一 杉山孝)

別紙 上告理由書

第一点原審は上告人(控訴人)の本権に基く請求に対して、被上告人(被控訴人)が単に占有権者であるだけの理由で請求を棄却した違法がある。

上告人は本件訴訟において、賃借人たる被上告人に対して賃料不払を理由とし本件建物の賃貸借契約を解除して建物の返還竝に賃料及び賃料相当の損害金の請求を訴求したところ、原審は次の理由でこれを棄却した。

「被控訴人は控訴人から本件建物を昭和三四年五月賃借したところ、昭和三五年八月訴外人花木信から賃料を請求されるようになり同人が所有者であることを知つたので、程なく更めて同訴外人から従前の賃貸借と同一条件を以て賃借することの承諾を得、以後花木から占有の許諾を得た者として本件建物に居住していることが認められる。

そうすると被控訴人は控訴人との間の賃貸借契約とは全く別個な独立の権原に基き本件建物を占有するものであり、この占有権原を控訴人に対抗できることは明らかであるから、控訴人の本件賃貸借契約解除を理由とする明渡請求及び契約終了に因る返還義務の遅滞を理由とする損害金請求は解除の成否を判断するまでもなく、いずれも失当である。

しかし、原審は次の誤を侵している、即ち、(一)被控訴人は控訴人との間の賃貸借契約とは全く別個独立の権原に基き本件建物を占有すること、(二)この占有権は控訴人の本権上の請求を排斥し得るものと判断すること。

(一) 賃貸借契約は諾成契約であるから一個の建物を目的として当事者を異にする複数の契約が成立することは明である、であるからと言つて、一人か一物の上に数個の占有権を取得することはできない、一物一権主義の物権、とくに対物秩序維持の制度としての占有権としては当然である。

本件建物は原審認定のように上告人が昭和三四年五月被上告人に賃貸し以後同人を直接、上告人を間接とする占有が既に成立しているのであつて、しかもその時以降花木は本件建物の占有をしたことがないのであるから、たとい花木と賃貸借契約が成立したとしても占有のない者から占有権を取得することは不可能である。

(二) なお、仮りに被控訴人は花木から占有権を取得したとしても、控訴人の本権上の請求に対しては、その本権上の理由においてのみ審判すべく、占有権またはその権原如何を問題となすべきでなく故に、単に独立別個の権限に基いて占有権を取得したと言うだけでは本権上の請求を拒否できない、そうでなければ

例えば、盗品を犯人から賃借した者はその所有者からの返還請求を拒否できるし、また動産の賃借人甲がそれを乙に売り乙が即時取得をしたが、後に更に甲が買戻した場合は、甲は新権原に基いて占有権を取得したのであるから、裁判所は賃貸人の返還請求はこれを棄却しなければならない。

第二点原審は瑕疵担保の責任発生の要件を誤解してこれを適用した違法がある。

原審は本件建物の賃貸人である上告人に対し売買による瑕疵担保の責任を準備して「控訴人は借主をして、本件建物の所有権者に対抗できる正当な使用収益権能を取得させる義務があるものであるところ、所有者たる花木信との関係で斯る権原を有しておらない」と判示し、瑕疵担保責任は本件賃貸契約成立と同時に発生するものと判断しているのである。

しかし、建物賃貸借契約における賃貸人の基本的義務は借主をして建物を使用収益せしめる義務であつて、この使用収益が上告人の責によつて不可能となつた場合に初めて負担する義務であり、現に上告人は本件建物に居住しているのであるから瑕疵担保の負責の理由はない。原審が担保責任を容認したのは前示判示の通り花木との関係でその権限を有していなかつたと言う事に因るものであつて、使用収益が不可能になつたことを理由とするものではない。もしそうでないとするなら原審は使用収益が不可能となつて本件契約が解除された旨を判示すべく、これを欠く判決は理由不備の違法がある。

また被上告人には花木から本件建物の明渡を要求されてその使用が不可能となるも、上告人の主張もない。本件建物は上告人の所有であり(原審はこれを否定するが、所有権如何は本訴訟の先決的法律問題ではなく、賃貸借関係だけで判決できる事案で上告人がその所有権を立証する必要はない)

仮りに花木の所有であつたとしても原審は、

「上告人は本件建物を賃貸してその賃料を収受して自己の債務の返済に利用できる」と認定しているのであるから建物管理権の信託的移譲を受けている者であり、花木が仮りに本件建物を買つたとしても原審認定の通り所有権移転の登記がないから被上告人に対抗し得ないもので花木の明渡に応ずる必要はない立場にある。原審認定によれば昭和三五年八月花木が建物の賃料を請求したので、単にそれだけのことで被上告人は同人から賃借したと言うのにある。

第三点原審は被上告人が、瑕疵担保の負責の主張、それによる契約解除の取得、行使の主張をなさないのにその抗弁があつたとして、これを判決の資料としたのは弁論主義に反する違法がある。

原審判決理由は、

「被控訴人が主張するところの、花木信からあらためて本件建物を賃借したことにより、控訴人の本件賃貸借契約上の返還義務は滅した旨の抗弁は、貸主たる控訴人において、被控訴人をして花木との関係で適法に使用収益できる権原を取得させることができなかつたので、控訴人被控訴人間の賃貸借は効力を失つたとの趣旨であるから右の主張には解除権行使の意思表示を包含するものと解して妨げない」と判示する。

しかし右被控訴人の主張は(同人三七年七月三〇日準備書面)被控訴人は本件建物の所有者花木から更めて賃借するに至つたので控訴人の返還請求権は最早消滅したと主張しているに過ぎない、これは被控訴人の法律上の判断いわゆる裁判所に対する観念の表現で私法行為たる契約解除の意思表示ではない。

右主張の中から、控訴人は瑕疵担保の負責の事実があるから、これに因つて契約を解除すると言うが如き控訴人宛の意思表示などを抽出することは不可能である、だから原審も当事者間の賃貸借契約は効力を失つた趣旨だと変形し、更に契約解除の意思表示だと説示するか、契約が失効不存在との趣旨から、契約が存在することを前提とする契約解除の意思表示だと解することは不可能である。このような抗弁は被控訴人のなしたものでなく原審の作出したものである。

第四点原審は被控訴人の本件建物の賃貸借契約の解除権行使容認した。それならば契約終了によつて被控訴人は賃借物返還の法律上の義務があり、この点控訴人の請求を容認すべきである。そのことは花木との賃貸とは無関係であり、その後の執行機関の技術的判断に委すれば足りる事柄である。

第五点原審は本件契約解除に遡及効を判断した違法がある。

原審は

「民法五六一条の解除の効果は、賃貸借契約の場合といえども契約成立の時に遡つて発生するものである」と判示する。

しかし売買のように一回の給付を目的とし、その履行によつて消滅する債権関係においては解除は原状回復義務を以て適当とするのであろうが、賃貸借のような継続的債権関係にあつては、当事者はともかく契約解除に至るまでは従来の法律状態を以て満足しそれによる決済を承認しているのであるから、たとい原状回復によるにしてもそれは結局不当利得の交換に終り無意義である。売買のように給付した現物を返還するような必要ないから特に法律は賃貸借契約の解除には第六二〇条の特則を設けたものであつて、この法律の理念は第五六一条による解除の場合といえども同様であつて右特則の適用を排除する理由はない。

第六点原審は被上告人の主張していない抗弁をこれありとして判決資料に採用した違法がある。即ち

「賃貸借契約においては貸主たる控訴人は借主たる被控訴人に対して完全の履行を提供をしない限り遅滞に附することができないところ控訴人は完全の履行をしたものと認められないので控訴人の解除は失当である」と。

しかし、被控訴人は控訴人の不完全履行を理由として解除が失当である旨の抗弁の主張をしたことはない。

従来の被控訴人の主張は控訴人との賃貸借契約を否認し、なお仮定抗弁として。

(一)有効の弁済供託をしたこと。(二)請求賃料が統制違反であること。(三)権利の濫用。(四)所有者との直接賃借により控訴人の返還請求権の消滅の四点だけである。

前記抗弁の如きは原審が案出して抗弁に供しているに過ぎない。

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